• 25th 5月
    2013
  • 25
プライドが傷つけられたとかいって大騒ぎするヒトがたまにいるけれども、プライドっていうのは矜持のことであるから本来はプライドがあるから多少のことがあっても揺らがないというのが筋で、プライドを守るために本人がじたばた騒いでいたんじゃ意味がない。そういうのはプライドとはいわずにメンツといいます。
プライドは自分を守ってくれるものであって自分で必死になってしがみつくもんじゃない。
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  • 24th 5月
    2013
  • 24
  • 22nd 5月
    2013
  • 22
  • 21st 5月
    2013
  • 21
  • 20th 5月
    2013
  • 20
彼氏の居る女の子は覚えておいてほしいのですが、彼氏がいることで心理的な作用を起こし大抵の男性から非常に可愛い女の子と思われます。 これを専門家の間では学術的用語で『中華料理屋に入ってラーメンを頼んだら横のおっさんが食べてるチャーハンがやたら美味しそうに見える法則』と言います。
  • 19th 5月
    2013
  • 19
  • 18th 5月
    2013
  • 18
そんなやり方(=拷問)では、頑強な悪人は無罪放免となり、気の弱い無辜の者が有罪となってしまうことは間違いない。これこそが、真実を判定できると言われている拷問という手段の、致命的な欠点なのである。

チェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』(小谷眞男訳、東京大学出版会)。

「なるほど、そうだよね」、たいていの人はそう思うでしょう。しかし、「今日の日本の刑事司法は、本質的に『拷問』司法である」と言われればどうでしょうか。「え?まさか!」との反応が大半ではないでしょうか。そのような人にこそ、ぜひ実態を知ってほしい。「人質司法」、というよりもはや「密室監禁司法」というべき日本の刑事司法の現状は、大抵の人々が考えるより遥かに悪質かつ陰険です。

確かに、鞭でぶつとか、縄で吊るすとか、古典的な(というより、もはや漫画的と言うべき)拷問は、日本では行われていないようです。しかし、無用な長期勾留、接見禁止などの追加的な制限、こうした日本の刑事司法における慣行はどうでしょうか。拷問とは、被疑者に自白させるべく苦痛を与えることである。そうであるならば、日本の現状は、もはや紛うことなき拷問でしょう。そして、こうした自由の制限は、それを経験したことがない人が想像するより、はるかに辛いものであることを、強調しておきます。

さらに考えてみてください。あなたがこのような拷問を受けたときに、かつ、その事実が社会的には拷問だとみなされないとしたら、あなたはどう感じるでしょうか。そのような社会の無関心や無理解に、さらなる苦痛を感じるのではないでしょうか。そして、その苦痛が、「否認しても有罪にされてしまう」という絶望を呼び、哀れな被疑者を自白させるさらなる圧力となる。これは現実に起こっていることです。「拷問を追認する社会である」ということは、まさに私たち自身が「無関心」という拷問具によって、被疑者を拷問にかけているということでもある。そのことを深く自覚する必要があります。

人身の自由は、その他のあらゆる自由の基礎です。これが守られない社会に、表現の自由も思想の自由も集会・結社の自由も何もあったものではありません。そして、人身の自由に対する過酷な侵害の歴史が、刑事司法における適正手続の考え方を発展させた、その経緯を今一度思い起こすべきです。このような意味においても、私たちは未曽有の危機的な状況の中に生きているのです。

(via monmojimoji)

(yaruoから)

  • 17th 5月
    2013
  • 17

 そうした政治の特徴を極限的なかたちでいえば、必要とあらば悪魔とも共存する道を探ることだということができるでしょう。あなたが顔を見たくもないような相手、そもそも存在していること自体が許せない相手とも共存しようとすること。政治がわれわれ普通の人間にとって理解しがたい存在、嫌悪の対象である最大の理由はここにあります。一方の側の人間とその「正義」から見れば「極悪人」であり許しがたい存在と思われる人間、「いっそのことそんな奴は殺してしまえ」と思う相手とも共存の道を探る、というのは普通の人間から見れば「ひどい裏切り」であり、「汚い妥協」である、ということになります。

 政治という営みが、ひとつのはっきりした「正義」を抱いた人間にとっては「中途半端」な存在と思われる、あるいはむしろそうした「正義」を妨げる存在として嫌悪されるというのもここに根拠があります。「政治家は汚い」とわれわれが考えるのは、たんにそれが……政治腐敗を伴うからだけではない、むしろ異質な他者との共存のための営みであるという政治の本質に根ざしているということができます。(p138)

  • 16th 5月
    2013
  • 16
 「では、モノに支えられていないのなら、なぜ貨幣は価値を持てるのか? 『他の人もそれを価値として受け取ってくれるはず』という『期待』に支えられているのです。貨幣経済が誕生したことが、古代ギリシャを普遍性を考える近代社会にしたのです」
 「ギリシャ人は、貨幣を毎日使うことで、混沌(こんとん)とした現実を超越した普遍的な秩序が存在しうることを最初に見いだした。哲学や科学の起源につながる。また、貨幣を持てば人間は共同体的束縛から自由になる。自立した個人を前提とする民主主義を可能にする一方、個人の欲望と共同体の倫理を対立させる悲劇や喜劇を生み出した」
 「お金は『他の人が価値があると信じるはず』という期待のみを根拠とした不安定なものです。他の人が受け取ってくれないとみんなが思えば、その瞬間に貨幣は貨幣でなくなる。ハイパーインフレの歴史が示すように、国家が権威づけしても、お金はただの紙になりえます」
 ――お金に社会が振り回されるように見えます。
 「昔は、少数の天才以外は、金銀貨なら金銀の価値、紙幣ならば国家が支えだと信じていた。ただの信号になった電子マネーの時代になって、貨幣の本質が誰の目にも明らかになっただけです。お金という人の期待以外に支えがないもので動く以上、資本主義というのは根源的に不安定です」
 「リーマン・ショックの時に、金融工学を駆使した投機家こそ、資本主義を不安定にしたと批判されました。その通りですが、実は投機と、自分は無縁だと思ってタンス預金している人でも、お金を使っている以上、この不安定性にかかわっている。モノではなく、お金を持つのは、使えば他人が受け取ってくれることを期待している。それも投機です。資本主義の不安定性は、金融市場の問題というより、お金の本質から導き出されるのです」
 「アダム・スミス流の『見えざる手』に頼れば万事うまくいくという考え方が誤っている理由はこれを見落としているからです。でも、自由を求めれば、資本主義しか選択肢はない。リーマン・ショックの危機では大恐慌時代と違って、社会主義待望の声がなかった。チャーチルの有名な言葉をもじれば『資本主義は最悪のシステムだ。他のすべての制度を除けば』。政策的につぎはぎをして、だましだましやっていくしかありません」
  • 15th 5月
    2013
  • 15
 「資本主義とは、お金があるがアイデアはない人が、アイデアはあるがお金がない人にお金を貸すことによって、アイデアを現実化していくシステムです。デフレの時は、お金を持っているだけで得する。人々はお金それ自体に投機し、貸し渋りが起こった。インフレの期待は、人々をお金それ自体への投機から、アイデアに対する投機、さらにはモノに対する投資に向かわせるのです」
 「そういう意味で『期待』によって、お金がお金になるだけではなく、経済そのものに大きな影響を与える。経済政策を巡って『期待だけで実体が伴っていない』と言われますが、貨幣を伴う経済にとって、期待とは本質そのものとすら言えます」